大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和56年(行ツ)40号 判決

上告人

大阪市

右代表者市長

大島靖

右訴訟代理人弁護士

俵正市

重宗次郎

苅野年彦

草野功一

坂口行洋

寺内則雄

被上告人

木下浄

被上告人

岡野寛二

被上告人

玉石藤四郎

被上告人

金井清

被上告人

羽場正洋

被上告人

松吉徹

被上告人

塚田敏行

被上告人

山下森

右八名訴訟代理人弁護士

戸谷茂樹

守井雄一郎

石川元也

酉井善一

斎藤浩

東垣内清

永岡昇司

海川道郎

正木みどり

宇賀神直

吉岡良治

小林保夫

鈴木康隆

杉山彬

福山孔市良

右当事者間の大阪高等裁判所昭和五四年(行コ)第六二号、同五五年(行コ)第一七号不利益処分取消等請求控訴、同附帯控訴事件について、同裁判所が昭和五五年一二月一六日言い渡した判決に対し、上告人から一部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人俵正市、同苅野年彦の上告理由第一について

論旨は、要するに、原判決には行政事件訴訟法三条二項の解釈を誤った違法がある、というのである。

しかし、記録によれば、被上告人らは、大阪市教育委員会(以下「市教委」という。)を相手として本件転任処分及び本件研修命令(以下「本件各処分」という。)の取消しを求める訴えを提起したものであるところ、その第一審係属中に、被上告人らに対する本件研修命令の打ち切り及び再転任処分が行われたので、被上告人らの申立により、第一審裁判所において、行政事件訴訟法二一条に基づき、市教委及び上告人の意見をきいた上、右取消訴訟の目的たる請求を上告人を相手とする損害賠償請求に変更することを許可する旨の決定をしたものであり、右訴え変更許可決定はなんらの不服申立もなく確定したことが明らかである。

してみれば、右訴え変更後の本訴請求においては、本件各処分が国家賠償法一条一項にいう公権力の行使に当たる公務員の行為に該当するかどうかを問題にするならばともかく、抗告訴訟の対象となる行政処分に当たるものであるか否かを問題とする余地はないものといわなければならず、上告人の主張は既にこの点において失当というべきである。論旨は、採用することができない。

同第二の一、第三及び第四について

所論の点に関する原審の事実認定が是認できるものであることは、第二の二及び第五の論旨に対して述べるとおりである。原審の適法に確定した事実関係の下においては、本件各処分は、処分権者の裁量権の範囲を逸脱してされたものとして、国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を免れないものというべく、また、上告人の担当公務員に少なくとも過失があったことは否定できないものといわなければならない。右と結論を同じくする原審の判断は、結局正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう部分を含め、ひっきょう、原審の右判断を不当として非難するに帰するものであって、採用することができない。

同第二の二について

本件あいさつ状をもって上告人が主張するような差別文書と断定することは困難であるとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らして肯認することができ、その過程に所論の違法はない。右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は、採用することができない。

同第五について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解を前提として原判決を論難するものであって、採用することができない。

同第六について

被上告人らの任命権者ないし服務監督権者が、その当、不当はともかく、被上告人らの服務義務違反を問題にしようと思えばそれができたことと、被上告人らが本件各処分の違法を理由にそれによって生じた損害の賠償を上告人に請求することとは、全く別個の問題である。これと同旨に出た原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。所論引用の判例は、原審の判断とはなんら関係のないものである。論旨は、ひっきょう、独自の見解に基づいて原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大内恒夫 裁判官 谷口正孝 裁判官 角田禮次郎 裁判官 髙島益郎 裁判官 佐藤哲郎)

上告代理人の上告理由

第一、原審には行政事件訴訟法第三条の解釈を誤った違法がある。

一、被上告人らは大阪市教育委員会(以下単に市教委ともいう)がなした昭和四四年九月の転勤(被上告人岡野、同金井を除く)(以下同じ)および同四六年二月、五月の各研修命令(同五二年四月末日まで毎年同時期に更新)(以下同じ)は、取消しの対象たる行政処分であり、かつ、違法な処分であることを前提に損害賠償の対象となると主張する。しかし、本件右転勤および研修命令は、行政事件訴訟法三条二項にいう「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為」に該当せず、その取消しを求める本訴の前提自体不適法で直ちに却下されるを免れないところであり、その前提を欠く本訴も、理由がないことに帰する。

即ち、行政事件訴訟法のいう「処分の取消しの訴え」の処分とは、行政庁の具体的行為であって、国民の法律上の地位ないし権利関係に対し直接に何らかの不利益を及ぼす行為である。

ところが本件転勤・研修命令は、被上告人らの資質の向上を図るためのもので、それ自体なんらの権利義務に直接不利益を与えるものではなく、抗告訴訟の対象となる行政処分ではないのである(同旨、長期研修命令について処分性を否定した東京地判昭和四五年三月三〇日教職員人事関係裁判例集第六集三四三頁文部省初等中等教育局地方課編参照)(乙四九号証)。

また、本件転勤・研修命令によって被上告人らに課せられた義務は、同和教育を推進するため、市教委が策定した同和教育基本方針(昭和四一年一一月策定)(乙一号証)に則り、各同和教育推進校で研修することおよび大阪市教育研究所で研究員として研修することであるから、学校での授業を担当させていないこと自体は、なんらの直接不利益を与えるものではない。

教育委員会は、教員の任免その他の人事権を有するとともに、「研修」に関する事務を管理執行する権限を有する(地方教育行政の組織および運営に関する法律(地教行法)二三条三号八号、教育公務員特例法(教特法)一九条二〇条、地方公務員法(地公法)三九条)。

一方、教育公務員は、「その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。」(教特法一九条)とされている。そこで、教員としての職務遂行上研修が必要であると教育委員会が判断したときは、本人の意思に反しても当該教員に前記服務監督権を行使して職務命令をもって研修を命じることができるのである。

そして、右研修に必要な範囲で勤務の態様、場所等の勤務条件に変更を招来することがあるが、これは研修命令に当然附随する効果であり、勤務条件の変更をもたらす研修命令は発せられないという法律上の根拠はない。

職務命令としての研修命令が、その法的性質上本人の意思に反し、勤務条件の変更をもたらすことがあってもそのこと自体は、前記法の許容することであり、なんら教員の権利を侵害するものでないから、行政処分たる性格を有しないのである(前記引用判例参照)。

したがって、本訴は、その前提たる本件転勤および研修命令が取消しの対象たる行政処分その他公権力の行使に当たる行為ではないのに、これが取消されることを前提としているから、理由がないことに帰するので、これを抗告訴訟の対象となるとした原審判断は違法である(行政事件訴訟法二五条、三八条三項、四三条一項二項参照)。

二、原審の本件研修命令が、行政事件訴訟法三条の抗告訴訟の対象となるとの判断は同法条の解釈を誤ったものであり、取消さるべきである。

原審は、本件研修命令が六年の長期に亘ったことを理由に、その実質は転任処分であるから抗告訴訟の対象となるという。

しかし、研修を命じた理由が存する場合継続して研修命令を発するか否かは人事権を有する教育委員会の裁量の問題であり、それが長期に亘ったからといって研修命令が転任処分に変じるいわれはないしそのように解するその法的根拠もまた存しない。

被上告人らの「勤務場所および勤務内容に少なからぬ変更」が生じたとしても、それは研修命令が有する当然の結果であって、それゆえに同命令が転任処分に変じる法的根拠もこれまた皆無である。そして、研修命令が行政処分たる性格を有しないことは前述のとおりであり、この点に関する原審判断には誤りがある。

第二、原審には左のとおり憲法及び法律解釈を誤った違法がある。

一、憲法一九条の解釈の誤り

(一) 原審は、市教委の、被上告人らが作成配布した本件「あいさつ状」が部落解放の中心的役割を果す同和教育の推進を阻害するもの――この意味で差別の温存助長に繋がるゆえに差別文書といえる――と判断し、被上告人らの資質の向上を図るため行った本件各処分は、「思想、信条の自由、内心の自由」を侵すもので、憲法一九条に違反する処分であると判示する(一審一五四丁)(原審判決は、一審判決を基本的に維持しその一部につき加除訂正を加えるという構成を取っているので、一審の判断内容を維持している部分につき、これを摘示する際には一審何丁と表示する―以下同じ)。

(二) しかし、右判断は、憲法一九条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」との規定の解釈を誤ったものである。(以下略)

二、差別を禁じる憲法諸条項及び法律解釈の誤り。

(一) 本件「あいさつ状」に同和教育の推進を阻害する差別性があるか否かの判断は、単なる事実認定の問題ではなく、すぐれて憲法解釈、法律解釈上の問題である。(以下略)

(二) 原審の本件「あいさつ状」についての判断は、被上告人らの「表現の自由」のみを偏重し、前記部落差別の解消を唱う憲法一一条、一三条、一四条、二二条、二四条、二五条、二六条、二七条の諸規定との調和を看過したもので、憲法解釈を誤り、ひいてはこれを具体化した特別措置法の前記法条の解釈を誤ったものである。

(1) 原審は、本件「あいさつ状」が「市教組東南支部の役員選挙に際して組合員に労働条件の改善を訴え、あるいは市教委の教育行政を批判するため」(一審一四二丁裏)作成配布されたものである(市教委も被上告人らの主観的意図がそこにもあったであろうことを否定するものではない)ことから、主観的意図として「同和教育に対して水をさし、これに反対する意図」がなかったと認定し、さらに市教委と被上告人らの間に同和教育のとらえ方にも相違が見られること、市教委のいう「同和教育の推進を阻害するおそれのある文言を記載してあるものが差別文書である」との考え方は極めて広範囲のものを包括する余地があるから妥当でないこと等を理由に、「あいさつ状を差別文書と断定することは困難」(同一四五丁)「教員の責務と課題意識を失わせ、同和教育に対する自主的な取組みを阻害するものであると断定することもできない」(原審一〇丁裏)というのである。

(2) しかし、この原審判断は、本件「あいさつ状」の表意者の主観的意図としての「表現の自由」を偏重しすぎており、文書の受け手としての教職員側に存する部落差別解消のための同和教育を忌避する意識が存するという半ば公然かつ公知の事実(特別措置法もこの事実を認めているし、逆にそのような忌避的態度が教職員に蔓延しておらず、多くの教職員が同和教育の推進に効果的な方法を自主的に取り組んできたなら、特別措置法の関係条項、前記通達はあるいは必要もないのであり、これら条項が存することからみてもそのような忌避的態度が蔓延していたことは公知の事実といえるのである)を無視し、よって文書の意義を表意者側からのみ判断する誤りを侵しているのである。

(3) また、地方公共団体が設置する学校の教育方針は、種々の協議過程を経て、最終的な方針という行政意思の決定にたどりつくわけであるが、それは教育委員会によってのみ統一的なものとして確定されるのである。越境入学廃止とそれに伴う過員の人事異動は、同和教育推進のためには避けて通れない関門であり、同和地区住民の強い願いであり、大阪市教職員組合も「明年四月の小・中学校への新一年生からの越境入学が絶対におこらないよう行政的措置を実施されたい」(乙五二号証)と賛同していたところである。また、市教委は、同和教育推進のためとはいえ、教員による自主的取組みを阻害したり、あるいは勤務条件の悪化をきたさないよう同和教育推進校への教員の加配と教員の自主的取組みに対する手当を支給、校内討議による同和教育の実施の原則等を厳守し、教職員の労働条件について充分の措置を取っていたことも当時の教師なら誰れ知らぬもののない公知の事実なのである。

原審判断は、本件「あいさつ状」の差別性の有無の判断につき考慮すべきこのような客観的状況について、「かかる状況を充分考慮しても」としつつ、前記憲法の各条項および同対審答申を受けた前記特別措置法の条項の解釈を誤り、その結果本件「あいさつ状」を差別文書とする市教委の判断を否定したもので、取消さるべきである。

第三、原審には、教育委員会の有する裁量権の範囲についての解釈に誤りがある。

本件転勤・研修命令を違法とする原審判断は、地教行法二三条三号・八号、教特法一九条・二〇条および地公法三九条が認める教育委員会の裁量権の範囲についての解釈を誤った違法がある。

一、(一) 原審が、「市教委の市立学校教職員に対する人事移動は」(一審一五二丁裏)として、人事異動につき市教委に一定の裁量権があることおよび命令研修について一定の裁量権があることを認めて、展開する一般論(同一五三丁)には妥当なものがある。

ところが、本件転勤・研修については、〈1〉「あいさつ状を差別文書と認め(させ)ることにあったこと」、〈2〉「解同矢田支部の要求に応じて行なった恣意的なもの」(同一五三丁裏)だからとし、右〈2〉をもって、「教育の自由を侵し、公教育の中立性を侵害する不当な支配に屈したもの」とし、右〈1〉をもって「(被上告人らの)思想・信条の自由、内心の自由」を侵すもので、「裁量の範囲を著しく逸脱した裁量権の濫用」があり、本件各処分は違法であるとするが、この判断は市教委のもつ裁量権について根本的にその解釈を誤っている。

(二) 即ち、原審は、本件「あいさつ状」を、同和教育の推進を阻害するものと断定することはできないとの立場からのみ、本件の各処分を判断しているが、元来、裁判所が行政機関の裁量処分の適否を判断するにあたっては、当時存した「広範な事情を総合的に考慮」すべきであり、さらにその判断の結果と当該処分とを比較してその軽重を論ずべきでなく当該処分が社会観念上著しく妥当を欠くか否かの観点から判断しなければならないのである。最高裁第三小法廷が昭和五二年一二月二〇日に神戸税関懲戒処分事件について判示したところである。従って本件判断についても、第一次研修命令が発せられた当時本件「あいさつ状」が同和教育の推進を阻害するものであるとの考え方が、矢田中教員、解放同盟矢田支部(同一二七丁)のほか、市教組執行委員会にもあったこと(同一二九丁)、被上告人木下、同岡野も一旦は「あいさつ状」が同和教育の推進を阻害するものであることを認めたこと(同一二八丁)、さらに本件転勤処分(同四四年九月一日と一六日)が発せられるまでに、同年六月総評大阪地評が、同年八月大阪市議会が本件「あいさつ状」を差別文書と認め(乙二二号証)、本件転勤処分が発せられた後の同年九月一三日井上清、杉浦明平、奈良本辰也、野間宏の四氏が朝日新聞誌上に、「教員の素朴な日常要求と部落問題を対置させており、このことによって、一般教員の同和教育に対する嫌悪感を助長させる差別文書となっている」(乙五三号証)と指摘した等の事情を考慮して判断さるべきであったのである。

二、(一) 右に指摘したとおり、一方では本件「あいさつ状」には同和教育の推進を阻害する考え方がはっきり見られるとしこれを差別文書であるとみる者があるとき、中立的立場にある市教委が、同和教育に取組むべき教員としては充分にして慎重な当然の配慮に欠けるものと判断し、その資質を向上させるため、しかるべき適当な措置の一つとして研修を選択し、これを命じることも妥当な処分というべきである。

また、同和教育の推進を阻害する考え方を文書にして配付宣伝した被上告人らのうちの、同和教育推進校に勤務していない者(被上告人岡野、同金井を除くその余の被上告人ら)をして、同和教育推進校の教員、児童生徒や地区保護者とのふれあいを通じて同和問題への理解と資質の向上を図るため研修を兼ねて転勤を命じたこともその目的手段からみて妥当な処分というべきである。更に同和教育推進校へ転勤後の勤務状態をみるに、教師集団、児童・生徒、地区保護者とのあつれきの発生があり、ホットな関係を鎮めて、なお研修を続けるため大阪市教育研究所にその場を移して研修を続けることも妥当な処分というべきである。

なお、原審は、被上告人岡野、同金井の状況からして右転勤については市教委の教育的配慮がたりなかった(同一四七丁裏)というが、四囲の状況や被上告人ら各人の各校での対応を、渦中にある矢田中(被上告人岡野、同金井の在籍校)と比較して結果を事前に予測することは困難な状況でありその批難もまた該らない。

(二) 右のような転勤・研修命令が、教員本人の意思に反するとしても、そのことから直ちに「思想信条の自由、内心の自由」を侵害するとの判断はできない。なんとなれば、命令研修や転勤は、本人の意思に反しても、その目的が妥当であれば許されるものであるからである。

なお、本件転勤・研修が「思想信条の自由、内心の自由」の侵害にあたらないことは第二、の一、に述べたので再論しない。

(三)(1) さらに、原審は、〈1〉昭和四五年一一月五日に矢田教育共闘会議が市教委と交渉した際、「彼らの意識の変革をなし遂げる自信があるか」との共闘会議側の質問に対し、市教委が「従来の反省の上に立ち、同和教育を阻害しない適正な場所で、意識変革につながる最も効果の上がる内容の研修を精神的にやってゆきたい」と答えたこと(同一四九丁裏)、〈2〉同四四年九月一日矢田中学校で研修することとなった被上告人岡野、同金井に対し同校の坂井田教頭が「木下文書を差別文書と理解できるよう研修すること、自己批判すること、解放同盟矢田支部と積極的に話し合うこと、同支部役員に対する告訴を取り下げること、部落差別の実態と部落解放運動に学びつつ、自己の意識変革を速みやかになし遂げるために研修」すること(同一四九丁)、〈3〉同四四年四月九日の糾弾集会で解放同盟府連書記長が「こういう差別教師は首切りを市教委に要求する」とあいさつしたこと(同一五一丁裏)、〈4〉右〈1〉の交渉の席上、共闘会議側が暗に市教委に対し被上告人らを不適格者として免職するよう要求したこと(同一五二丁)等の事実を挙げ、本件各処分は「解放同盟の要求に応じて行なった恣意的なもの」と認定している。

(2) しかし、右のうち、〈1〉と〈4〉は件外第一次研修命令および本件転勤・研修命令が発せられた後のことであるとともに、矢田教育共闘会議の行為であり、同会議は市教組東南支部および同支部矢田中分会、矢田小分会と解放同盟矢田支部の各構成員から成るもので、前記(二)の〈2〉の理由となる「解同矢田支部の要求」とは時期的にも、要求団体の実体からしても結びつかない。

右〈3〉は、糾弾集会のあいさつであり、市教委への要求ではないし、右〈2〉は、現場で被上告人らの研修を掌る教頭と補導主事が、矢田中での極めてホットな関係(告訴・教師、生徒および保護者とのあつれき)を正常化しようとして発言したものであり、木下文書を差別文書と理解できるよう研修することとか、意識変革というのは、「あいさつ状」が同和教育の推進を阻害する問題性を含んでいることを認識し、同和教育に取組むべき教員本来の姿に立ち戻るべきことをいうにあったことは明らかであり、加えて解放同盟矢田支部との三月一八日の約束を実行するよう説得を兼ねて指示したものでもあった。

これらの事実をもって、本件各処分が解放同盟矢田支部の要求に応じて行ったものと断定することは誤りである。

(四) さらに原審は、「研修命令が正当なものであるならば、被上告人らの義務違反は極めて重大であるから、それに対して市教委は研修を打ち切るなり、免職等の強い処分をもって臨むべき」であって「そのような処分を採れなかったことからも、本件各処分の違法性は明らかである。」(同一五四丁)というが、市教委には、研修を打ち切る義務や免職等の強い処分をなすべき義務は、実定法上どこにも規定されていないのにこれあるかの如き判示は違法であるほか、判示の本件の義務違反につき、どのような措置をなすのが妥当かは市教委のそれこそ裁量の範囲で、判示の如き立場を採らなかったことからも、本件各処分が違法というのは明らかに法律の解釈を誤った違法な判断である。

第四、原審には、国家賠償法一条一項の「故意又は過失」の解釈に誤りがある。

本件各処分を行った市教委の判断に、「故意又は過失」があるとの原審の国家賠償法一条一項の解釈には誤りがあり、取消さるべきである。

一、(一) 本件「あいさつ状」が同和教育の推進を阻害する内容を含んでいるか否かの判断――この意味で差別性を有するか否か、の判断といいかえることもできる――が、単なる事実認定の問題でなく、憲法の各条文ならびに同対審答申、大阪市の同和教育基本方針および特別措置法の当該条項を適用して、差別を許さず実質的平等を確保するという公序良俗ないし公共の福祉の観点と「表現の自由」との調和をいかに判断するかのすぐれて憲法ないし法律上の解釈の問題であることは既に前記第二、で指摘したとおりである。

(二) また、本件「あいさつ状」に右にいう差別性があると判断されるとき、市教委は、「教職員の構成の適正化、各学校における教育効果の一層の増進をはかるべ」く(一審一五二丁裏)一定の裁量権のもとで人事異動を行い、また、「教職員の水準を維持向上させるため」に一定の裁量権のもとで研修を命じ得ること(同一五三丁)は多言を用しないところである。

(三) そして、本件「あいさつ状」の差別性についてはその評価・解釈に対立があったことも事実であり、従って、少くとも本件「あいさつ状」に一切の差別が含まれておらず同和教育の推進を阻害するおそれもなかったと判断することが唯一の正しい判断であると即断することもできない状況にあったのである。

因みに、昭和四四年被上告人木下、同岡野、同玉石、同金井らがなした告訴に始まるいわゆる矢田刑事事件は、約六年の歳月をかけ、同文書の差別性の有無を最大の争点として争われた結果、同五〇年六月三日に、同文書に差別性ありと判断しているのである。

このように評価・解釈が激しく対立し、今日においてさえ容易にいずれの見解が正しいかの結着をみない状態にあるのであり、本件各処分当時市教委において、本件「あいさつ状」に差別性があると判断し、よって本件各処分を発令しても、職務義務の懈怠はなかったというべきであり、従って「故意又は過失」を認めることはできないというべきであり、これと異なる原審判断は違法である。(以下略)

第五、原審には、理由不備ないし理由齟齬及び審理不尽の違法がある。

原審(一審一五三丁裏)は、本件各処分は「解同矢田支部の要求に応じて行なった恣意的なもので、それは教育の自由を侵し公教育の中立性を侵害する不当な支配に屈したもので……違法である」と認定するが、この認定の基礎となる理由中の説示事実を前提として詳細に検討しても、経験則上到底そのような結論には至らず、結局原審には左のとおり理由不備ないし理由齟齬の違法があり、さらに、本件各処分の違法性を判断するにあたって、きわめて重要な当時の関係者の証言を採用しない等の審理不尽の違法がある。

一、(一) 件外第一次研修命令は、被上告人岡野に対しては、昭和四四年五月九日、被上告人木下、同玉石に対しては同月二〇日に発したが、これが右理由により違法であるとする判示事実は左のとおりである。

〈1〉 市教委が、本件「あいさつ状」が配布されて後解放同盟矢田支部と初めて接触したのが、同年四月九日の矢田市民会館での市教組組合員も多数参加した中で行われた同支部の糾弾集会で、当時の同和対策指導室長であった亡森田長一郎氏が同支部の亡泉海節一氏より同「あいさつ状」についての見解を問われた時である(同一三七丁表)。この時解放同盟大阪府連の当時書記長であった上田卓三氏が右府連は矢田支部とともに自己批判しない者に対し糾弾を続けていく、これらの教師の首切りを市教委に要求すると、あいさつした(同一五一丁)。

〈2〉 同月一九日、被上告人岡野、同玉石、同金井が、解放同盟矢田支部の役員であった右泉海氏、戸田政義氏外二名を逮捕監禁罪で告訴した(同一三一丁裏)(告訴を受けた大阪地方検察庁は戸田、泉海両氏を監禁罪で公訴提起し、同五〇年六月三日大阪地方裁判所刑事第八部は無罪判決を言渡した。――検察側控訴、控訴審判決は、同五六年三月一〇日言渡予定)。

〈3〉 同年五月九日、市教委は、事態が次第に深刻化するに従い「あいさつ状」に対する態度を明解にする必要があると考え、乙五号証の教育長通達を発し、「あいさつ状」は同和教育の推進を阻害する差別文書であることを明らかにした(同一三八丁)。

同日、〈1〉記載のとおり、被上告人岡野に、同月二〇日同木下、同玉石に件外第一次研修命令を発した。これは、市教委が、「現場の学校において同和教育の理解を得ることは困難」であり、「現場におけるホットな関係を鎮めるためにも学校を離れて研修した方が適切である」と考えたことによる(同一三九丁)。

以上の判示からは、件外第一次研修命令が「解同矢田支部の要求に応じて行なわれた恣意的なもの」であるとの認定は経験則上困難であり、理由不備であること明らかである。

(二) 市教委は、同年九月一日、被上告人岡野、同金井は同和教育推進校たる矢田中学校に勤務していたので同校で専ら研修することとし、これを除くその余の被上告人ら六名をそれぞれ管内の同和教育推進校に転勤することを命じた。その理由は、同和地区をもつ同和教育推進校で「部落差別の実態に学びながら同和教育に取り組んでもらうため」であった(同一四〇丁表)。

右転勤が、「解同矢田支部の要求に応じて行なわれた恣意的なもの」であるとの結論に導く判示は原審、一審判決のどこを深しても見あたらず、理由不備であること明らかである。

たゞ、同日、転勤のなかった被上告人岡野、同金井の勤務する矢田中学校で、坂井田教頭が右両名に研修につき、五項目の指示(導)をなし、両名の指導を担当していた升田補導主事もこれを全面的に了承していた(同一四九丁)との判示が見られる。しかし、右教頭の指示は、現場教頭の立場から、最もホットな関係にあった矢田中学校において校区住民を告訴し、事態を一層悪化せしめた右両名に対してなされたもので、市教委の指示によるものではないが、教育現場を正常化しようとする意図からなされたものであり、右五項目の指示があったことをもって両名以外の被上告人らになした右転勤が「解同矢田支部の要求に応じて行なった恣意的なもの」となるとは到底考えられないことであり、いずれにしても理由不備であることに変わりはない。

(三) 市教委は、同四六年二月一日被上告人らのうちの岡野、同金井を除く者に、同年五月一日被上告人岡野、同金井に、それぞれ大阪市教育研究所での研修を命じた。

〈1〉 これは、被上告人岡野、同金井については「矢田中学校の生徒及びその父母との間の信頼関係が失われ、同校での研修効果が上ら」なかったこと(原審九丁)、その余の被上告人らについては、「配転先の同和地区の父母及び児童生徒との信頼関係もなく、とかくその間に紛争が生じがちであり、配転校における研修効果も上っておらず、このまま研修を続行しても意味がないばかりか、かえって、教職員の間にあつれきが生じ、被上告人らを同和教育推進校にそのまま継続して勤務させることは困難な状況が出てきた。」(一審一四〇丁表裏)ので、各校長の意見に基き、右研修命令を発したのであった。

〈2〉 ところで、右研修命令を発する前の同四五年一一月五日、市教委は、解放同盟矢田支部、市教組東南支部矢田中分会、同矢田小分会の各構成員から結成された矢田教育共闘会議と交渉を持ち、同共闘会議側の質問に対し、「従来の反省の上に立ち、同和教育を阻害しない適正な場所で、意識変革につながる最も効果の上がる内容の研修を精力的にやってゆきたい。期間は当分の間ということで考えてゆきたい」と答えたことを判示し、(同一四九丁裏)ついで、「共闘会議側が述べている研修とか、意識変革ということは、被上告人らがあいさつ状の差別性を認めることであり、そのための研修であることは容易に推認することができ」、「市教委は……共闘会議側の要求に何ら反論することなく、そのまま受け入れようとしている態度が認められる」とし(同一五〇丁)、加えて、同交渉の席で「共闘側は、差別教師が自からの差別を自覚反省することなく戸田、中田を告訴した結果、もし有罪となれば、差別者が首を切ったことになる、そのようなことになれば差別者は首を切られても仕方がない旨述べて、暗に市教委に対し被上告人らを不適格として免職するように要求した」(同一五一丁裏)ことを認定している。

〈3〉 右認定事実からいえることは、解放同盟矢田支部は本件「あいさつ状」を差別文書として被上告人らを糾弾していたこと、矢田教育共闘会議は、被上告人らに本件「あいさつ状」が同和教育の推進を阻害するものであるという自覚と反省をさせるべく研修指導を強化することを要求していたことである。そしてその自覚と反省を持たせることを「意識変革」と述べていることも明らかであり、思想信条の変革を求めたものでないこともまた自ら明らかである。

そして、右のように研修指導の強化を求めたのは矢田教育共闘会議という実体からして同和地区児童生徒の保護者と現場の教師集団から成る運動体の要請であり、それは、解放同盟矢田支部の要請とは異なる意思形成過程を経て出てきた運動体の要求であるから、これをもって本件研究所での研修命令が「解同矢田支部の要求に応じて行なった恣意的なもの」との結論を導くのは理由不備ないし理由齟齬というべきである。さらに、本件研究所での研修命令は、同和教育推進校での研修が判示の如き状況でその効果が上らなかったことと、右の矢田教育共闘会議の要請があったことならびに市教委は、本件「あいさつ状」が同和教育の推進を阻害するもので被上告人らの資質の向上を図る必要があると考えていたことによって発せられたのであり、共闘会議という同和地区の児童生徒の保護者、現場の教師達の要請をも一つの判断材料にしたことは否めないが、本来行政は、一切の住民の声から隔絶しては成立たないのであり、教育もまた同様である。一切の判断を当不当を考慮せず住民の声にのみ委ねることは特に教育の中立性からして許されないが、判断材料の一つにすることも許されないものではないことからして、「恣意的なもの」「公教育の中立性を侵害する」との結論は、理由不備ないし理由齟齬の違法あるものというべきである。

二、さらに本件各処分の違法性を判断するには教師集団及び同和地区住民の本件あいさつ状に対する評価、これに対する対応又は反応の経緯等が客観的状況としてしん酌すべき極めて重要な要素となる。

すなわち端的にいうならば同和問題に係る事項については、部落住民の意思を無視して論じ得ないことは当然のことであって、かかる観点から、原審において上告人は右事項を立証すべく教員である二村新六、同和問題に精通している村越末男、同和地区住民の立場からこれらあいさつ状の評価等をなし得る戸田政義の各氏を証人として申請したのであるが、原審裁判所は上告人の立証意図を一しゅうし、これら証人の採用を却下し、かつ前記矢田刑事事件の弁護側最終弁論要旨の提出を却下した。かかる審理不尽が右あいさつ状の評価の誤りを含めて、一、に指摘した理由不備ないし理由齟齬をもたらしたもので違法といわざるを得ない。

第六、原審は、行政行為の公定力について解釈を誤り、ひいて民法一条二項の信義則の解釈を誤った違法がある。

原審には、行政行為の公定力に関する最高裁判例違反があり、よって、本件損害賠償請求について、民法一条二項の信義則違反の解釈を誤った違法がある。

本件各処分が抗告訴訟の対象となる「行政庁の処分その他の公権力の行使にあたる行為」に該るとするならば、被上告人らの本件損害賠償請求は、同人らが本件各処分による研修命令に対し、一切具体的研修に入らないという重大な義務違反を侵しながら提訴したもので民法一条二項の信義則違反の権利行使であり、失当であるとの上告人の主張に対し、「原判決認定のとおり本件各処分自体違法なものであったのである」(原審七丁)から、被上告人らがそのような態度を固持したとしても、「「そのことから直ちに、本件請求が信義則上制約されるものとは解されない」(同上)として上告人の主張を斥けた。

しかし、本件各処分は、教育委員会が適式に発した研修命令であり、それが取消されるまでは、「それが重大かつ明白な瑕疵を帯有しているため無効であると認められる場合を除いては、何人もその効力を否定することはできず、これを承認すべき義務」がある(仙台高裁昭和四四年二月一九日判決、判例時報五四八号五〇頁)のである。単に転勤命令に従い赴任したり、研修命令に従い研究所に着任したという外形上の義務履行のみが存したとしても、本件転勤・研修命令の期間中、一切の具体的研修に入らなかったという重大な実質的義務違反は存するのである。従って、被上告人らが本件各処分を違法であると考えていたから、そのゆえに右各処分に従わなくとも信義則違反でないとはいえないのである。

本件各処分が事後的に司法審査の結果違法であるとなっても、その時点までは、本件各処分は、有効に存在していたのであるから、市教委が被上告人らにこれに従うことを要求できるのは当然であり、なんらの違法はなかったのである。

原審は、本件各処分を違法と評価しているがそれならば、公定力の理論により取消されるまでは有効に存在していたと認めるべきであり、にもかゝわらず被上告人らの右義務違反を信義則違反でもないというのは、なんらの理由を示さず、本件各処分をその発令時から重大かつ明白な瑕疵ある当然無効の処分であるというに等しいものである。

このような原審の右行政行為のいわゆる公定力に関する解釈は、最高裁第三小法廷昭和三四年九月二二日判決民集一三巻一一号一四二六頁に反するものであり、その判断の違法は、信義則違反の判断に反対の結論をもたらすこというまでもない。

以上

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